
日光を浴びる。
目を閉じる。
これはきっと、あの世の感覚だ。
もしくは、あの世の入り口の感覚かも知れんけど、
ぼくは生まれてこの方、ずっとあの世へ行く準備ばかりをしている。
日光を浴びる。
目を閉じる。
これはきっと、あの世の感覚だ。
もしくは、あの世の入り口の感覚かも知れんけど、
ぼくは生まれてこの方、ずっとあの世へ行く準備ばかりをしている。
そのことに対して、解決策を幾つも思いついているのに不安が発生している。
心の中だけで治まる程度のやつじゃなく、身体症状が出るやつだ。
ここがまだ健常には成り切れないところなんだな。
パニック障害×過負荷=劇症化
劇症化×ベンゾジアビピン×離脱症状=煉獄
煉獄×SSRI-(離脱症状÷月日)÷(セロトニン×光療法)=緩解前夜
(緩解前夜ー離脱症状)÷(光療法×セロトニン×セロトニン×セロトニン)+ルーティン改定ー(SSRI÷月日)=緩解
緩解≒???
憧れに手が届いてしまったとき、
全てがつまんなく思えたことがある。
それは結局、
憧れるという行為に憧れていたんだろうなあ。
だからかどうだか知らんけど、
今でも本当の憧れを探してる。
誰かが死んだ、と聞いたとき、羨ましく思わないことは無い。
でもそれは、
いってしまえば子供のころ大人に憧れたようなものなのかも知れない。
まあオレは子供んとき、大人にはいっさい憧れなかったけどな。
死、というのは、全てのいきものに出来ることだから、簡単なことのように思える。
でも、
死というのは、死ぬほど怖いよね。
しかし、
パニック発作が酷いとき、死は死ぬほどに近い位置に在る。
だが、
絶対にといっていいほど死にはしない。
ゆえに、
ぼくはまだ生きている。
ならば、
生きるのはかんたんなのか?
架空の人格というのは、実在しないという意味では無く、自分の中の"if"ってことなんだ。
それは劇中(漫画やアニメ、映画の中)の人物にもいえてて、
もしももifもなにもなく、
自分の中には明確に実在しているんだ。
そしてぼくは、
基本的に架空の人物に付いて話すことが多い。
離脱症状は単なる症状であり、病状では無いという。
過ぎてしまえば確かにその通りなんだけど、
離脱症状の辛さを耐え抜くには精神的遠視にならないといけなかったりするよね。
ぼくの体内から血液が一定量流れ出るとぼくは居なくなるから、
ぼくは血液である。
セロトニン量が一定数在ると気分良く存在できるゆえ、
ぼくはセロトニンである。
つまりぼくは、
体内物質の集合体にしか過ぎず、脳内物質に左右されるだけのエントロピーなんだ。
ある年齢までは異性と話すのが苦手だった。
今は同性と話すのが苦手だ。
しかも全員が年上に思える。
本物に触れるのは怖い。
でも、
怖さはやらない理由にはならない。
深層の好奇心というものがあるから。
こっちのぼくは、ある意味リミッターを外している。
というか、
外せている。
永遠のナギ節と緩解ってニュアンス的に似てる気がする。
組み合わせが無限っぽいものには手を出さないようにしよう。
それは沼といわれるものなんだろう。
まあ、無限の中から、これだ、って組み合わせを見つけたときは、
至福なんだろうけどね。
アイデアが生まれるるとき、
それが思いやりに基づいている場合に限り、
発生する現象が在る。
なにごとにも例外というものが在る。
それはきっと”あそび”なんだろう。
きっちきちのルールはいつしか綻び、あそびなき機械はすぐに壊れる。
まあ全ての機械はそのうち壊れるんだけどね。
ぼくは誰もフォローとかしないので、どうぞご安心くださいな。
幼少のころから、誰にいわれるまでもなくメメントモリるのは当たり前で、
それは今も変わらず、基本的にぼくはメメントモリingしている。
少し変わったところがあるとするなら、
ラテン語と日本語とイングリッシュを混ぜても気にならないところかな。
ついでにいうなら、
イギリッシュ・ロックとかいってもまったく気にならない。
ぼくは先生のいうことを半分しか聞かない。
治るのも、
治すのも、
ぼくの心体だからだ。
特に減薬のタイミングは、
自分の体だけが知っている。
事実、デパスの減薬は何の指導もされなかった。
お陰で、あの世でこの世を引き裂くような凄まじい離脱症状を喰らうことに。
当時は、太陽光を浴びるという積極性すらも持てなかったけど、
治りたいという積極性は捨てなかった。(まあそんくらい追い込まれてただけだけどな)
ゆえに、
光療法に着手した。
光速のごとく照射器具を購入した。
だって光回線だしさ。
そう、
数萬円で治るのなら安いもんだ。
本当に安いもんだった。
と、
過去形でいえることが、なによりもいとをかしきことだわ。