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双極性障害

男性 難読 25歳 PC 2018年03月24日(土) 12:13
投稿ID:64698
躁鬱。限界。けれど一人語り。
どうも、久々にお目にかかります。難読です。

もちろん初めましての方がほとんどだと思いますが、随分前にここを利用した時はみなさんからの声で相当楽になりました。

そうして今日までごまかしごまかしやってきたものが、今になってまた再発してきたかのように。本当に、ガンを患っている気分なのです。あぁ、再発か。そんな絶望感はもちろん、何よりも自分自身納得してすらいる。「どうせお前はそういう人間なのだから」と自分自身をやはり見捨て続けておりました。

長い長い文章になりますが、きっと吐露することでしか第一歩が踏み出せないと思うのでここに書き殴らせて下さい。その上でもしこの文を読んでくださった方が思うことが一つでもあれば、どんな感想でも批判でも共感でも傍観でも構いませんので、コメント頂けると幾分救われます。

さて、私は別段「躁鬱」に昔から悩まされていたわけではありませんでした。けれど本当に沈む時は沈むし、テンションが高い時はもう多幸感と全能感に包まれて、周りが見えなくなる。気がつけばそれを躁鬱というものだと知ったのはここ数年の話です。

昔から頑張るのが好きで、褒められることが嬉しくて、真面目に実直にやってきました。けれど思春期の折に理不尽ないじめに遭い、友人にも家族にも裏切られ、おそらく私の歯車はそこから狂い出した…というか、そういう人生だったのでしょう。

元は実直だった性格もあってか、自分には正直ながらも運動音痴というコンプレックスがありました。勉強も技術的なこともそれなりに、ソツなくこなせる。けれどどうしても運動には向いていませんでした。それがまた”いじめ”になったことで拍車をかけ、私の自信は更に落ち込んでいきました。

結果引っ込み思案、人見知り、消極的な人間の完成。と思いつつも、根っこの部分には勝気な部分があったようです。昔から勝負事に負けることが嫌いでしたから、その反骨心で、ちょっとしたきっかけさえあれば「いじめた奴らなんかに負けてたまるか」「裏切った奴らを見返してやる」とばかりに、前に進むことが出来ていました。今思えばそれは、現代のいじめに比べて恵まれていたのだと思います。

それから時間が経って成人に向かう頃には、気づけば私は大きな仮面を被って生活していました。インターネットという環境の中に本当の自分を閉じ込めて、劣等感やコンプレックスを、掲示板やネットゲームで発散する。対して外面は、距離を中立に保ち、人間関係を最低限に絞っていきました。人間不信も相まって、始めの頃は本当に話しかけたり目を見たりするのが嫌でたまりませんでした。

と、こんな経歴ですから、歪む一方で。男女交際等も結局、心を許す相手などいない私ですから、うまくいくわけもなくて。親友もいない。けれど仲良くなった相手とはその空気感を読むことに長けてきた私にとって、「友人」を装うにはさして難しくありませんでした。

だから私は自分自身をずっと見つめ続けてきました。普通の人よりも、自己分析が出来ているという自信があります。何が出来て何が出来ないか、何をしたいくて何をしたくないか。相手にとってどう思われてるか。こんな技術が、結局の所私の武器になりつつあって、もう今となっては端から見ればそれなりに人当たりが良く見えるでしょう。

けれど感情は絡まるばかりです。私は全て、余すことなく吸収してきました。昔から新しい刺激にめっぽう好奇心が旺盛で、そして両親もそれを許してくれました。私はとにかく、その新しい刺激が原動力で生きてきたようなものです。

面白い小説を読んだり、旅行、ゲームや漫画はもちろん、スポーツもそうですし、恋愛や人間関係ひとつとっても。ぐぐっと世界が広がって見えてきます。これまでの倍どころではない、数百倍、数万倍に膨れていく。そうしてまた新しいものに出会うと、その倍倍と…この瞬間はまごうことなく幸せです。

ただ。反面、落ち込む要素も多くあります。ひとつはコンプレックス、トラウマ。結局は私は、自分を見捨てています。心の奥底でダメなやつだと決めつけている成長過程が、最後の最後で萎縮させます。普段は真逆、「自信のある万能な好青年」を演じており、それがまた多少上手くいっているからでしょうか。引っかかりがあると、途端に落ちるのです。やはり躁鬱はこの、プラスとマイナスを行き来する上でぴったりちょうどいい0のラインに立つことが難しいのでしょうか。必ずいつも、気分が乗っている時か、落ち込んでいる時か。そんな毎日です。特にこれは、感情の揺れ幅が大きい恋愛時において顕著になります。

私は、私の無力さを無意識のうちに隠そうと、「人の役にたつこと」を率先してやります。自己犠牲。それがたまらなく私の原動力でもあります。身を削って、例えば学校に遅れても、テスト勉強の時間が削られても、ご飯を食べ損ねても、誰かのためになるという確証があった時、絶対に成し遂げようとします。

それが失敗すると、落ちます。落ちに落ちて、やはり死にたくなる。けれど死にたくなるのもまた引け目ですし、迷惑をかけて死ぬくらいなら、消えてしまいたい。こういった悩みを持つ方には、よくある表現かもしれませんが。

私を回復させてくれるのは、自分を認めてくれる何か。「ノルマ」「点数」「課題」「結果」「順位」そういったものに、とりつかれている時期もありました。

話が逸れていってきてしまいましたが。そういう、生きる上で、私が生き続けようとなんとか頑張ろうと思えるのは、その反対側に「幸せ」があることを知っているからです。鬱でどうしようもなく死にたくても、幸せだった頃の気持ちはなんとなく覚えているものです。それはもちろん、思い出しても幸せになれない。けれど、苦しみと天秤にかけて、まだ死ななくてもいいかと、もったいない気持ちになれば死ぬことは延長されます。

その逆も然り。躁状態でも、私は絶望を知っています。今にも死にそうで、本当に死ぬのかよなんて声をかけられれば死んでしまいそうな状況な私自身を知っている。けれど今はその幸福に浸るしかない。いつまで続くかわからない興奮を噛み締めています。

小説を読んで、感動した時。ドラマの主人公に感情移入した時。世界がぐぐっと広がると、私の「ゲージ」は最大値を更新します。それだけ、感情の振れ幅が広くなる。

「あぁ、今過去一番幸せかもしれない。」

と、何度口にしたことか。あくまでも私は私を大事にしてきた、一人の時間が何にも代えがたいもので、もっとも確実性のあるものだから。

そうしてそれは本当の心情なのだけれど、それだけ幸せになった分の落差は、非常に大きい。これがいつ壊れてしまうのだろうという、不安。恐怖。そして絶望。

私は私の人生を見返して、例えば憧れるような人生を見つけてそこに感情を重ねて幸福に浸ってから、やはりその人生は自分のものではないと絶望するのです。

実に不毛で、やるせない。私はこんな自分が嫌いですが、自分が嫌いになってしまったらもう、自分を認めてあげる相手がいなくなってしまう。だから私は自分を、嫌いになりきれずにいる。自殺するまでは、私は私を好きでいるのでしょう。

さて、長々と語って参りました。もう言いたいことなど取り留めなく、ただただ感傷に浸った文章です。

私は私を、どうしていきたいか分かりません。1週間後の目標は、あります。けれど10年後の目標。それはもちろん、こういう家を買ってだとか、そういう話はありますが。自分自身の生き方、「今の自分」その名前を背負う人間として、どう在るべきか。自分自身に問いかけ続けて、四半世紀。こればかりは傲慢でもいいと思っていますが、やはり私は自己への問いかけにおいては群を抜いている自負があります。文章力や語彙力はともかく、このようにした自己解釈は、半世紀生きた人にも負けず劣らず。それでも解決できないのは、生きてきた経験も、ググり抜けてきた修羅場も、まだまだ質が低いからなのでしょう。

なら、どうしたいか。共に認め合い、高め合い、自分を好きになるための相手を見つける。というか、やはり人は一人では生きていけない。確かにそう思います。恋人を見つける努力も、しました。けれどもう、それはまた私の一つのトリガーになってしまった。近くなればなるほど、相手に「自分自身に求めているものと同等のもの」を要求してしまう。私は恋人を束縛するわけでもなければ、むしろ相手に合わせていくことを重視するのだけれど、気がつけばそれは私が磨耗しているし、それを我慢しなければきっと、相手は私の生き方を許容することは出来ないでしょう。お互い、気がつかなくていいこともある。妥協すれば解決することもあるのに、私はそれを察知しなければ、怖くて歩けないので。

そんなややこしい、極めて面倒な関係もまた、私のコンプレックスでありトラウマでありながら、やはり今一番欲しいものです。想像は出来ない。けれど、やはり素敵なものだと思います。私の根源である、新しい刺激。あぁ、こんな考え方があったのか、この人といるとこんな生き方があるのか、と。

ただ、これは蛇足ではありますが、今の私には荷が重いというか、結局はそれほど人間器用ではないので、ソツなくこなすとしても、恋愛一つ形になるまで、他のことには手がつかなくなってしまいます。私には今、それほどハードルの高いことは、やはり出来そうにない。ただお互い安心するためで、それがごく自然に、エネルギーもほとんど使わないものだとしても、私にはどうしても今一人でいることを超える想像が出来ないのです。

余計な話になってばかりいて、また長くなってしまいました、から長くなってしまいましたが。何がしたいというのは、やはりなくて。幸いにも、まだ今「死にたい」と思ってはいても、それを実行するつもりがなく、こうやって文章に起こしている時点で、その点は自分で安心です。

私は自分で、感情コントロールの自己啓発もやっています。けれどなかなかに難しい。かといって病院に行くことは、私の想像を超えないと、傲慢ながらに思ってしまいます。カウンセラーの方と相談した時は、多少良くなったこともありますが。自分の中のことは、やはり自分で解決していくしかない。もちろん、他の人の手を借りながら、ではありますが。この辺りも自分自身が赦す境界が曖昧なのも、如何ともしがたい部分ではございます。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございます。
きっとただただ吐き出したかっただけなのだと思いますが、やはり「限界」は「限界」なものですから。けれど変な話、こうして吐き出せるだけで、この世の未練というのも薄れるものです。何を言っても結局私は、一人で死ぬのは嫌なのだと思います。それでも一人語りをしなければ生きていけないのは、我ながら滑稽でありますが。

コメント、メッセージ、お待ちしております。
男性 ニシ 22歳  /  千葉県 PC 2018年03月24日(土) 12:44
投稿ID:64700
文章を長く読むのにも少し苦労はしましたが、しかし面白味もある文章で、表現するのが上手いんだなと思いました。
ご自身はいまやりたいことをしているということですが、しかしそれも行きつく所へ行きつけばまた嫌な気分になるということでしょうか?解釈が違えばすみません。ですが、ご自身がすることは、本当に自分のしたいことなのか、自分自身がやりたいと思ってやっていることなのか、一読して少し疑問に思いました。
自分自身への理解はされていても、あなただって完璧ではないのだから、もっとご自分のことを冷静に見れたらいいのかな、と思いもします。もしぼくのことが的外れでしたらすみません。ただ一つの参考程度の意見になればと思いコメントしました。

自分自身への期待というのは、高すぎればその分、反動が重く返ってきます。だから、自分ならこれをできるとか、自分ならあれをやれる。できなくても、それはそれでいいと思うし、だけどもう一度自分自身のことを思い返してみて、自分が本当にやりたいことを考えてみる。それを急がずに、ただゆっくりとでいい。急ぐ必要なんてないと思うし、あるならあるで、それをしてから、ゆっくり考え直してもいいと思います。

誰かと一緒にいないといけないと思われているのですか?もし違ったらすみませんね。だけど、誰かと一緒にいたいと思うのはごく自然なことだから、自分の状態を整えて、心がしずまってからでも、だれか一緒に寄り添う相手を見つけてもいいのではと思います。
  • 0
男性 難読 25歳 PC 2018年03月24日(土) 13:56
投稿ID:64706
ニシさん
コメントありがとうございます。我ながら冗長だと思いながら、遠慮せずに書き綴った内容です。お褒めの言葉も恐縮です。

今やりたいことは、今やらねばならないことの裏返しでもあるという自覚はあります。けれどそれは例えば金銭的なことだったり。自分はもちろん家族の将来だったり。

全て投げ捨てたらまた、見えてくるものもあるかもしれない。けれど私はどこかで、やはりというべきか「この世界で生きる意味」みたいなものを、見つけられていません。

それは例えば、大好きな漫画があって、その新刊を読む度に「あぁこれは続きを読むまで死ねないな」とその時は多幸感と充足感に満ちて、本気でそう思うわけです。

でもそれは時間が経つにつれて、もしくは他の意識によって希薄されていって、確かに楽しみだけど、今の無気力感を相殺するには不十分だと感じてくるのです。

完璧ではない。自分は大した人間ではない。期待は裏切っても構わない。

まあ、いろんな解釈をすべきなのはわかっていますし、それを言われると幾分か、昔と比べて落ち着くところもあります。けれど「考えてしまっている」うちは、堂々巡りというか、結局収束してしまうのです。私の生きる意味に、今生きている理由に。どれほど、「何も考えずに生きられる人生だったら」と思ったことか。

前述した通りの、ささやかな楽しみだとか。そういうものを積み重ねて積み重ねて、いってしまえば自分を騙して生きていると、私は思ってしまっています。

仕事ももう、投げ捨ててしまおうか。けれど今は、まだ自分を必要としてくれる。だから辞めないだけです。それだけなのです。だから投げ捨てずに生きることを続けているだけです。

一般論的にいう生きていれば楽しいことが、だとかいう内容は確かにそうだけれど、やはり自分にとって些事たるもので、根本の解決に至っていないのです。

とまあ、そういう「自分の中」だけの話だと、やっぱり広がってみえたつもりでも変わらないのかなと思い始めてきて、「誰かと」という話になったのです。

でもそれもきっと、「誰かのために生きたい」という依存的な心情故です。「誰々だから尽くしたい」というわけではなく、もう自分が夢中になった相手なら誰でもいいんだと思います。

そうして夢中になって、自分は苦しまずに老衰したいのでしょう。永遠と自分がすり減っていくのも分からずに、気が付いた時に幸せなな燃え尽きたい。けれどそれは客観的にみたら、ひどい話ですし、私自身プライドが揺らぎます。

こんな状態になった私は、何回も何回も固結びされた紐みたいに、もう解けないところまで来ていて、それは代わりの紐があったとしても、自分自身はもう変わらないもので、使えない状態にきてるんじゃないかなと、思い始めてきています。

繰り返し繰り返しの幸福も、裏を返せばまた絶望がくることの象徴。苦しみから逃れるためには、幸せを求めるしかない。苦しみ続けることに耐えてなどいけない。だからと言って幸せに憧れ、模倣して、それに近い感情を刹那的に得たとしても、私はそれが酷く苦しいのです。

今、新しい趣味を見つけて、酷く酷く幸せなのです。充足感が、やはり史上最高なのです。なのに。なのにもう恐怖を感じている。すでに反動が可視化されている。「あぁ、自分は結局、見出すものを越えられない」とわかっている。その期待や自分の目標が、あからさまに背伸びしたものだとしても、下げられない性分なのだと思います。

ただ、こうして文章に起こせるのは、他者の言葉があってこそ。
ニシさんのコメントに対する直接的な回答ではないかもしれませんが、この言葉を引き出して頂いただけでも、本当にありがとうございます。
  • 0
男性 ニシ 22歳  /  千葉県 PC 2018年03月24日(土) 14:56
投稿ID:64707
おいくつなのかはわかりませんが、人生焦る必要もないんですよ。どれほどの苦労を重ねてきたかは文章を拝読していくうちに伝わりもします。ぼくはいま21歳という未熟な年齢ですが、ただぼく自身も人生苦労してきた自負があります。なのでお気持ちはうっすらとながら理解はしているつもりです。
あなたは好きになった人のために生きている。好きになった人のために何かをしている人生なのだとおっしゃられますが、素晴らしい人生じゃないですか。
人の為に生きる人生、それも不特定者のために、ではなく、自分があの人のためになら、と思える人生は、ぼく自身そんな人生に憧れているんですよ。

自分のことだけ考えてもどうかと思いますし、ただ、人のためならなんでも、だれでもいいという考えも、それもどうかと思います。
だけど、この人のためなら、と思える人生こそ、まさしく人の為に生きる。いい人生じゃないですか。って、ぼくは思います。

言いつつも、ぼくも人から、人の為に生きるということを教えられたんですけどね。

あなたがどういった人生を歩まれるかは、すべてあなた自身なんです。人がああ言うから、こう言ったからどうするのではなく、自分が落ち着く場所に身を落ち着かせる。

いやなことが同じことが何度降りかかろうと、休む手段でもいいし。
いいことがあった後には嫌なことがあろうと、それは自然な流れ。決して絶望するようなことじゃないと思います。

ぼくだってそうですよ。いい気分のときもあれば、あの悦びはいったいなんだったのかって思う瞬間もあり、それらを繰り返していって自分が落ち着くようにもなるんです。
工夫するというより、暗い気持ちのときには暗いままにしてもいいし、明るい気持ちのときには明るくしててもいいし。

こうしたらまた反動で暗くなるんじゃないかって思っても、別にそんなのいいじゃないですか。暗くなったら暗くなりましょ。
ただ暗いのに無理に明るくしようとしても、逆に身体が疲れるだけですから。
  • 0
男性 クリスプ730 25歳 PC 2018年03月24日(土) 23:17
投稿ID:64722
長文全て読ませていただきました
あなたが自分ときちんと向き合ってきたことがよく分かりました
自己の内面を理解しここまで語れる人はなかなかいません

投稿内容を読み私が思ったことを話します

あなたは純粋で正直でしたがやはり過去のいじめにより
感情の振れ幅がマイナス方面に振り切れてしまったのかもしれません
マイナス方面に一度振り切れると簡単にそっちの方面に接続しやすくなります
また、感情は相対的なのでマイナスに振り切れた分だけプラスの感情の感じ方も大きく感じます
躁鬱はその大きすぎるギャップゆえに社会生活が難しくなってしまうわけです

そしてあなたはいじめは自分で何とかするしかないし人生も上手く立ち回ろうと思ったのかもしれません
あなたは自分の内面をよく見ていて仮面をかぶる必要を感じ
仮面をかぶりながらも今まで自分を見てきました

抑えられないコンプレックスや仮面と自分のギャップも
ある意味ゲームや掲示板で解消しながら周りと自分の関係を保ってきたわけです

あなたはとても純粋であり好奇心が旺盛でそれ故に多くのことに目が向き
多くのことを発見し突き詰めることが出来ます
それは楽しいことであればとても楽しい気分になるのですが
一度引っかかりというものトラウマスイッチに触れると
多くのネガティブなことに意識が一気に集中して崖から転落したかのようなダメージを受けます
正直これを何度も繰り返すとかなりきついです

私も何度もこういったことは経験し色々な対策を考えました

人の役に立つことを自分をないがしろにしてまでも行い失敗すると落ち込みが激しいのは
過去のいじめに起因しているように思います
過去のトラウマを解決する必要があるのです

ただトラウマというのはプライドの中に存在し
解消するには一度自分をリセットする必要があります

躁鬱の感情の波を何とかする方法はいくつかあります
①相殺法
プラスの感情とマイナスの感情を相殺してフラットな状態を保つことです
しかしこれを行うには感情がまだ制御できる段階であることと
適切な分量で行う必要があります
また、これを行う上で気を付けるのはトラウマスイッチに触れないようにすることです

②俯瞰法
物事を俯瞰し事柄の影響力を低く見積もることです
簡単に言えば「地球の大きさに比べたら自分はちっぽけなんだよなー」みたいな感じです
現実逃避しているだけじゃんと思うかもしれませんが
躁鬱において現実逃避できるというのは大きなメリットがあります
またプラスとマイナスのみの波に別の次元が追加され
規模が大きいか小さいかという状況により感情をコントロールすることが出来るようになります
上か下かだけではなく大きいか小さいかまでアプローチできれば
ある程度あらかじめ対策はできます

あなたの内面分析力であればこれらの方法は実行可能です
外面でのアプローチよりあなたは内面世界を認識しているので
突き詰めればコントロールできるようになります
  • 0
男性 たつみ PC 2018年03月25日(日) 16:36
投稿ID:64732
こんにちは。
言葉が言葉を生み出して心から離れている。
心から離れてるから、感じるのは取り残されたままの心と言葉の空虚さ。
内側を見つめているようでいて、外側ばかりを気にしている。

結局、彼女が欲しいけれど、どうしてもうまくいかない。そこだけなのかなぁと。
その理由を、心から離れて理屈付けようと理論武装している。
そんなことを思いました。

人は言葉で思考する。
けど、言葉の広がりに比例して思考が広がるのかといえば、そればたぶんない。
広がりはきっと心で決まる。

心のありのままを出さないと、左脳ばかりが優勢だと、右脳で生きる女性には通じないし、見透かされてしまいます。
自分のかっこ悪い部分も現実として受け止めないと、せっかくの優秀さもスポイルされてしまいます。
だから、とっても惜しいなって思います。

人間なんてちっぽけでいい。
幸せを求めるより、自ら不幸に突進しないこと、誰かに悪をなさないこと。
それくらいでいい。
それでなくても、不幸な出来事はどうしようもなくやって来るのだから。
僕はそんなふうに思います。
  • 0
男性 難読 25歳 PC 2018年03月25日(日) 17:39
投稿ID:64734
たつみさん

こんばんは、コメントありがとうございます。

言葉が言葉を生み出して心から離れている。刺さるお言葉です。

確かに、そうなのかもしれません。
今の現状は、結局自分独りには解決できなくて。
それは色んな理屈を取ってつけても、結局は本能に忠実な寂しさとか、承認欲求にまつわるもので。

そうすると、自分にはそうした認め合える相手が居ない。その後ろめたさや引け目を隠そう、見ないふりをしようと必死なのだと思います。

ただそれは私の中で、たとえそれが現実逃避だとしても「一括」してそうなのです。
理屈や、感情論も分かっているつもりです。けれどそれはあくまでもつもりでしかなく、たつみさんが仰っている通り、やはり人間はちっぽけなもの。

ただ、独りでいる私はそれを嚥下することが出来ない。
かといって今の、現状の私に、そういったパートナーや心を許せる相手を見つけ出すということ自体、国家プロジェクトを成功させるくらいの労力が必要なのだと思います。だから言葉に言葉を重ねて、それで納得しようと必死。

心をありのままに表現して。けれどそれは一方通行。
私は私を理解しているからこそ、それを体現して、失敗しているからこそ、不安は払拭されません。それでいいんだと言い聞かせても、納得は出来ない。

これだけたくさんの人がいるんだから、一人くらい自分を受け入れてくれる人がいるよ、なんて言葉が結局現実味を帯びていない。オカルト話のように聞こえてしまう私は、ただただ不器用なのでしょうか。

それならある程度、平々凡々な人生でも、細やかな幸せと共に一人で生きていくことも、別に私は否定するつもりもなくて。ある意味、その方が明確な生き方を脳内で構築できていたりします。仕事は嫌いではないですし、やりたいことは幸いにも沢山あります。その節々で障害になるのが、やはり「孤独」なのだと、たつみさんの言葉で実感しました。

私は私なりに、言葉は繋がっているものだと思いますから。
たつみさんが仰ってくれた言葉から引き出された言葉も、最後は私が紡いだ言葉。
不安や恐怖が生んだ偶像だとしても、その言葉が仮面のような、幻のようなものだとしても、きっと欠片程度には真意が込められていて、それがまた自分を強くしてくれる。なんていう風に、今は強がって生きていくしかないんでしょうかね。

とにかく、ありがとうございます。
素敵なお言葉、全て飲み込むだけではもったいないと、いろいろ書かせていただきました。
  • 0
男性 たつみ PC 2018年03月26日(月) 21:00
投稿ID:64773
こんばんは。
厳しい指摘も自分に落とし込んで考えられること。
いいなって思います。
だから僕は難読さんとこうしてつながっていられるのだなぁと。

橋本治が『いま私たちが考えるべきこと』という本の中で「のりしろ」という言葉を使っていて、僕はこの言葉が気に入っています。
そして僕はこんなことを思うのです。
「のりしろ」に似たものが溢れる世の中で人は簡単に誰かとつながれる。けれど、中身が空虚なままで四六時中誰かと時を埋めても、そこに本当の関係性は生まれない。つながっているはずがひとりになって、ふっと寂しくなる。
補い合うことと依存し合うこととは違う。ひとりでいることと孤独が違うように。
補い合うには「個」の自立が必要で、それはひとりで過ごした時間だけが育んでくれるもの。そうして自身の内側を充たすことで気付いた「のりしろ」が、「優しさ」をもたらし、人と人は結び付く。

たくさんの人がいる。
だから、一人くらいは自分を受け入れてくれるはず。
その発想はどうだろうって思います。

わかってくれる人がいないなら、ひとりでもいい。
その方がひょっとしたら近道なのかもしれません。